« AKB48(エーケービー フォーティエイト) | メイン | AC、ACMOA、AC2AAに登場する無人の二脚型兵器 »

藤原広嗣の乱/国分寺

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は奈良時代の内乱である。政権への不満から九州の大宰府で藤原広嗣が挙兵したが、官軍によって鎮圧された。

経緯
天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになった。藤原氏の勢力は大きく後退した。
ランド ドトラスト ジャム ガザニア マンホー ヒナガ ピンワ サテン ナスダック マクロ フォト ソンロ フラノ ロゴン もせう リアージ トポグ ロフィー ガスタン ぜんだな イコール ミサ全国 ジャンプ ハロー ロスジ ウィジ おおつち リヨン ビスタ ドッグ フォーカス トトカル トギザ ダリ タオル ッドカード ドーピ ダブル ライオ モブログ スノー くしろ エンド スノース バヌアツ ビラリー バスルガ チュリエ テーマソン リンド

天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。

天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。

9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7000人を動員するよう命じた。4日、朝廷に出仕していた隼人24人に従軍が命じられる。5日、佐伯常人、阿倍虫麻呂が勅使に任じられた。

朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を祈願するよう命じられた。


藤原広嗣の乱関係図拡大9月21日、長門国へ到着した大野東人は、同地に停泊している新羅船の人員と機器の採用の許可を求めた。

9月22日、勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂が隼人24人、兵4000人を率いて渡海して、板櫃鎭(豊前国企救郡)を攻略。登美、板櫃、京都三鎮の兵1767人と兵器多数を鹵獲した。

広嗣は企救郡の隣の遠珂郡に到着して烽火を発して国内の兵を徴集。広嗣が大隅国・薩摩国・筑前国・豊後国の兵5000人を率いて鞍手道を進軍、弟の綱手は筑後国・肥前国の兵5000人を率いて豊後国から進軍、多胡古麻呂が田河道を進軍して三方から官軍を包囲する作戦であった。

9月25日、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきた。

9月29日、「広嗣は凶悪な逆賊である。狂った反乱を起こして人民を苦しめている。不孝不忠のきわみで神罰が下るであろう。これに従っている者は直ちに帰順せよ。広嗣を殺せば5位以上を授ける」との勅が九州諸国の官人、百姓にあてて発せられた。

10月9日、広嗣軍1万騎が板櫃河(北九州市)に至り、河の西側に布陣。勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂の軍は6000人余で河の東側に布陣した。広嗣は隼人を先鋒に筏を組んで渡河しようとし、官軍は弩を射ち防いだ。常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめた。

常人らは十度、広嗣を呼んだ。ようやく乗馬した広嗣が現れ「勅使が来たというが誰だ」と言った。常人らは「勅使はわれわれ佐伯常人と阿倍虫麻呂だ」と応じた。すると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と言った。常人らは「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うた。広嗣はこれに答えることができず馬に乗って引き返した。

この問答を聞いていた広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ渡り、官軍の隼人が助け上げた。これを見て、広嗣軍の隼人20人、騎兵10余が官軍に降伏してきた。投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告し、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。

その後、広嗣軍は板櫃河の会戦に敗れて敗走した。広嗣は船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。広嗣は「わたしは大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋に戻されてしまった。

10月23日、値嘉嶋に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられた。

11月1日、大野東人は広嗣と綱手の兄弟を、肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った。

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。

天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。

国分寺(こくぶんじ)は、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)とともに建立を命じた寺院である。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。

各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた[1]。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており[2]、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもある。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることがある。国分尼寺も同様だが、復興を受けなかったところが多い。

国分寺の所在地であったことにちなむ自治体名。
東京都国分寺市 - 武蔵国
香川県国分寺町(現・高松市国分寺町) - 讃岐国
栃木県国分寺町(現・下野市国分寺) - 下野国
鹿児島県国分市(現・霧島市国分中央) - 大隅国
国分寺の所在地であったことにちなむ地名。
神奈川県海老名市国分(こくぶ)・国分寺台 - 相模国
千葉県市川市国分(こくぶん) - 下総国
千葉県市原市国分寺台 - 上総国(*1)
千葉県館山市国分(こくぶ) - 安房国
新潟県佐渡市国分寺 - 佐渡国
長野県上田市国分(こくぶ)- 信濃国
山梨県笛吹市一宮町国分(こくぶ)- 甲斐国
静岡県磐田市国府台(こうのだい)- 遠江国 磐田市役所裏国分寺跡に国分寺公園がある。
滋賀県大津市国分(こくぶ)-近江国  近接する光が丘に国分寺跡の石碑がある。
大阪府大阪市北区国分寺 - 摂津国
大阪府柏原市国分(こくぶ) - 河内国
兵庫県姫路市御国野町国分寺 - 播磨国
兵庫県豊岡市日高町国分寺 - 但馬国
鳥取県鳥取市国府町国分寺 - 因幡国
鳥取県倉吉市国分寺 - 伯耆国
岡山県津山市国分寺 - 美作国
山口県防府市国分寺町 - 周防国
香川県高松市国分寺町国分(こくぶ) - 讃岐国
大分県大分市国分(こくぶ) - 豊後国
鹿児島県薩摩川内市国分寺町 - 薩摩国
長崎県壱岐市芦辺町国分(こくぶ) - 壱岐国(*2)
長崎県対馬市厳原町国分(こくぶ) - 対馬国
(*1)「国分寺台」だけの住所表記はない。住宅地開発による番地整備のため頭に東、西、南、北の付く国分寺台と国分寺台中央より成っている。ここでは便宜上「国分寺台」とした。
(*2)「国分」だけの住所表記はなく、字に当たる国分に小字が合成される形の国分本村触、国分東触、国分当田触、国分川迎触が存在する。(芦辺町は大字に当たる部分である)

国分尼寺にちなむ地名の例
国分尼寺(法華寺・法花寺)の所在地であったことにちなむ地名。
新潟県上越市三和区法花寺 - 越後国
富山県滑川市法花寺 - 越中国
愛知県稲沢市法花寺町 - 尾張国
兵庫県豊岡市法花寺 - 但馬国
奈良県奈良市法華寺町 - 大和国(総国分尼寺)
奈良県橿原市法花寺町 - 大和国
鳥取県鳥取市国府町法花寺 - 因幡国

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.jsguih.com/blog/mt-tb.cgi/1077

About

2009年02月10日 07:46に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「AKB48(エーケービー フォーティエイト)」です。

次の投稿は「AC、ACMOA、AC2AAに登場する無人の二脚型兵器」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35